多様な作風 絵変わり表現 大津絵美術館

多様な作風 絵変わり表現

 大津絵美術館は1971年、圓満院門跡(えんまんいんもんぜき)に開館しました。当時の住職がコレクションしてきた大津絵だけでなく、広く全国に呼び掛けて多数の寄贈を受けており、実にさまざまな大津絵関連資料が展示されています。今回は、絵師や画家が描いた「絵変わり大津絵」を紹介します。

 そもそも大津絵は、大津百町の西端、旧東海道沿いの大谷、追分付近で売られていた土産物絵画です。風刺やこっけい味の効いたさまざまなキャラクターを考案して好評を博し、全国区レベルでファンがついていました。例えば江戸中期の京派を代表する円山応挙(1738~95年)は、当時の圓満院門跡祐常から支援を受けて数々の代表作を制作しており、大津に通う中で大津絵にも親しんだようで、現在5点の応挙筆「絵変わり大津絵」が確認されています。一方、江戸の浮世絵師にもファンがいて、喜多川歌麿、歌川広重、歌川国芳などは、いくつもの作品に大津絵を登場させています。

 そんな彼らをしのぐのが、幕末・近代を代表する京都の文人画家、富岡鉄斎(1837~1924年)です。彼は「大津絵は我が絵の師である」と言い、数十点の大津絵を残しています。その鉄斎の影響を受けたのが鈴木松年(1848~1918年)です。彼は明治8(1875)年7月ごろ、長野県飯田で鉄斎と知遇を得て以来、親交を重ねています。やがて大津絵を手がけるのですが、鉄斎と全く異なるアプローチなのが興味深い点です。

 鉄斎が戯画的でおおらかな作風で描く一方、松年は技巧的なデッサン力と迫力のある筆遣いを前面に出し、昭和の劇画さながらに押しの強いキャラクターとして大津絵を描きます。気性が激しく、新聞紙上でも歯に衣(きぬ)着せぬコメントでほえまくって世間を騒がせていた松年が憑依(ひょうい)したかのようです。
 続いて鹿子木孟朗(かのこぎたけしろう)(1874~1914年)の鬼念仏図を紹介します。彼は実にアカデミックなデッサン力と陰影表現を発揮する洋画家でしたが、そのテクニックを放棄し、キャラクターデザインを楽しむかのようなコミカルな造形で大津絵を描きました。それもそのはず、彼が所属する関西美術院の設立者、浅井忠が大津絵ファンだったのです。浅井は渡欧時にアールヌーボーに注目し、それを和様化して新鮮味を加えた意匠を発表しています。そこで注目したのが、明快なキャラクター造形をみせる大津絵でした。浅井から影響を受けた鹿子木は図案的な面白みだけでなく、大胆な髭や角の造形、挑発的な目つきで表現し、もはや現代の漫画家が描いたかのような鬼念仏に到達しました。「絵変わり大津絵」の快作です。

 最後に、ちょっと変わり種の「絵変わり大津絵」を紹介します。これは手拭いの下絵でしょうか。大津の花街、上柴屋町の芸舞妓(げいまいこ)や女将さんたちが歌舞伎役者の松本幸四郎にオリジナル手拭いを染めてプレゼントしたものと思われます。扇面型の中に大津絵十種が描かれ、その上には柴屋町を代表する座敷芸である大津絵踊りの大津絵節が添えられています。
 この下絵を描いた「英甫」なる人物は不詳です。松本幸四郎も嘉永2(1849)年に没した六代目か、明治44(1911)年に襲名した七代目なのか分かりません。「英甫」という号、そして「上柴廓連」の名称からは、嘉永ごろのようにも思えます。そうであれば、この下絵は大津絵十種が描かれた最初期の絵画資料ということになります。

大津市歴史博物館学芸員・横谷賢一郎

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