耐酸陶器 甲賀市信楽伝統産業会館
信楽焼は1975年、国により伝統的工芸品に指定され、77年に信楽伝統産業会館が設立されました。しかし当初の建物が古くなったため、2020年、信楽高原鉄道の信楽駅の近くに甲賀市信楽伝統産業会館として新築・移転されました。会館には常設展示室と企画展示室があり、常設展では鎌倉時代以降の信楽焼の歴史が、企画展では伝統工芸士会などの団体により現在の信楽焼が紹介されています。広い駐車場があり、観光案内所も併設されているので、信楽探索の出発点としてご利用ください。
●銅貨と茶壺
ここでは常設展示室に置かれている耐酸陶器(たいさんとうき)について話します。明治時代になると、大阪の造幣局において銅貨を鋳造するために硫酸が必要となりました。しかし硫酸の保管や運搬に、金属製のタンクや木の桶(おけ)を使うと、錆びたり穴が開いたりします。そこで造幣局が目を付けたのが信楽の茶壺(ちゃつぼ)の製造技術でした。陶器には酸にもアルカリにも侵されない性質があるからです。造幣局に硫酸瓶を納めた信楽は、同時期に耐酸レンガを納品した京都とともに日本初の工業用陶磁器の産地となりました。
●耐酸陶器の盛衰
大正時代には信楽焼の組合が経営する模範工場において、島根県産の来待石(きまちいし)という原料を釉薬(ゆうやく)にした赤茶色の耐酸陶器がさかんに作られました。従来の登り窯ではなく、西洋から伝わった熱のムラが少ない平地窯により焼いたため、耐酸陶器でできたパイプが変形しにくくなりました。昭和に入ると県立窯業試験場がフェノール樹脂を浸み込ませた高強度な耐酸バルブを開発。また近江化学陶器有限会社が設立され、民生用だけではなく、軍事用の耐酸陶器も生産しました。耐酸陶器は信楽や京都のほかでも愛知県の常滑や山口県の小野田、島根県の石見や兵庫県の立杭などで焼かれました。しかし1960年代以降は、ポリエチレンやフッ素樹脂が化学工業用の容器として使われるようになり、耐酸陶器は過去のものとなりました。
●ふしぎな形
展示品の耐酸陶器は男の子がバンザイをしているような姿をしています。どこの産地でもこの形はさかんに作られましたが、普通の保存容器ではなさそうです。なぜこのような形をしているのか、ご存じの方は教えてください。
甲賀市信楽伝統産業会館 「信楽焼ミュージアム」 館長 川澄一司