膳所に本拠を置いた膳所藩に関する名品 大津市歴史博物館

大津絵美術館 横谷賢一郎(大津市歴史博物館)

 大津市歴史博物館は、大津に関係のある絵画や彫刻、歴史資料などの数多くの文化財を収集・保管・調査研究し、広く公開することを目的として、1990年に開館しました。当館の常設展示では、広い大津市域の特色ある歴史を、地域ごとや時代ごとに紹介しています。今回は、その中から膳所に本拠を置いた膳所藩に関する名品をご紹介します。
 そもそも、膳所藩とはどのような藩なのでしょうか。膳所藩は6万石の譜代藩ですが、実は滋賀県に本拠を置いた藩の中では彦根藩に次いで2番目に大きい藩です。最初の40年ほどは、藩主家が頻繁に変わりましたが、1651年から明治維新までは、本多家が藩主を務めました。この本多家は徳川四天王で有名な本多忠勝の系統とは違い、三河国伊奈(現在の愛知県豊川市伊奈町)が始まりといわれており、一般に伊奈本多家と呼ばれています。藩祖である本多康俊は徳川四天王の一人である酒井忠次の次男でした。
 今回、ご紹介する名品は、1680年5月1日に出された「本多康慶家中定書」です。本多康慶は藩祖康俊のひ孫です。前年7月に叔父であり、前藩主であった康将が隠居しており、代替わりにともなって出されたものでしょう。藩士に宛てて、改めて心構えを説いたものとなっています。全16カ条からなり、幕府の法度順守や交際、縁組、武家のたしなみに関することなど、多岐にわたります。

 特に注目すべきは、第2条目です。内容は、隠居した前藩主康将が出した法度は必ず守り、康将からの御用はなおざりにせずにきちんと務めるように、というものです。そもそも康将は実子である忠恒がいるにもかかわらず、おいである康慶に跡を継がせました。これは、もともと藩を継ぐはずだった、康将の兄であり、康慶の父である康長が早世したことで、康慶が成長するまでの間、いわば中継ぎとして康将が藩主となったためです。康将は約束をたがえることなく、康慶が成長を見届けて家督を譲りました。
 このような事情から、康慶は康将に大変感謝していました。その感謝の気持ちが、この第2条に表れています。ちなみに、康将の子である忠恒は、康慶から1万石を与えられて、河内国西代藩が成立しました。
 もう一つ、注目点は、紙の継ぎ目や最後に押された印影です。皆さんは何に見えますか。私は鳥のような姿に見えましたが、実はこれは、室町時代に明との生糸の取引をしていた際に使用された、糸印(いと、いん)ではないかと考えられます。糸印を使用した人物は豊臣秀吉が有名ですが、武家での使用例は珍しいです。この印影は江戸時代前半までの歴代膳所藩主に見られるので、代々藩主に伝わるハンコだったのでしょう。

 この「本多康慶家中定書」は、当館常設展示室に展示しています。紅葉のシーズンは当館の周りの紅葉も赤く色づきます。紅葉狩りついでに「歴博狩り」はいかがでしょうか。

大津市歴史博物館 学芸員 五十嵐正也

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