江戸期の書文化探る拓本 観峰館
(公財)日本習字教育財団が運営する博物館・観峰館【かんぽうかん】は、「書の文化にふれる博物館」として平成7年(1995)に開館しました。20周年を迎えた平成27年(2015)10月には新館がオープンし、中国近代書画を中心とする2万5千点の所蔵品による展覧会のほか、近年では東近江地域の文化財調査をふまえた特別企画展を開催しています。
本館1階と3階では、「書の歴史」という常設展示があります。この展示では、甲骨【こうこつ】文字より、現代通用する楷書までの文字の歴史を学ぶことを目的に、コレクションの拓本【たくほん】資料が並んでいます。
1階の展示の中に、唐時代の皇帝・玄宗【げんそう】筆の「石台孝経【せきだいこうきょう】」拓本の展示があります。内容は、孔子【こうし】の教えをまとめた「孝経」に玄宗自らが註釈【ちゅうしゃく】を付けたもので、現代の私たちがついつい忘れがちな「孝」の精神が説かれています。例えば、「身体髪膚【しんたいはっぷ】之を父母に受く、あえて毀傷【きしょう】せざるは孝の始【はじまり】なり」という文章があります。これは「自分の体は、父母よりもらったものだから、傷つけないように大事にしないといけない、それが親孝行のはじまりである」という意味です。
その書は、「隷書【れいしょ】」で書かれています。隷書は、それ以前の篆書【てんしょ】を簡略化し、書きやすくしたものです。波打つような払い(波磔【はたく】)と偏平【へんぺい】な形を特徴をとする、装飾的【そうしょくてき】な字形です。身近な例でいうと、紙幣の「千円」などの文字は、隷書で書かれていますので、ご覧になってください。
隷書が広く日本人に書かれるようになるのは、江戸時代になってからです。昨年、日本人の隷書の作品として、水戸藩主・徳川斉昭【とくがわなりあき】が書いた「弘道館記碑【こうどうかんきひ】」を展示しました。すると、当館の学芸員が「石台孝経」と「弘道館記碑」の文字がとても似ていることに気付きました。
江戸時代は、寺子屋での教育にも孝経が重視されていたので、孝経に関する出版物は多く出版されています。特に水戸藩で成立した「水戸学【みとがく】」は、儒教【じゅきょう】思想を中心としており、藩校の弘道館へ入学するには、この孝経を習う必要がありました。当然、藩主である斉昭もまた、幼い頃より孝経を学んでいたことは自然に理解できます。
しかし、「石台孝経」と「弘道館記碑」の文字が似ていることは、これまで言及【げんきゅう】がありませんでした。文字が似ているということは、斉昭自身がこの「石台孝経」の拓本を見ていたことを意味します。「石台孝経」が江戸時代の日本にどれほど輸入されていたかは分かりませんが、寛政12年(1800)、屋代弘賢【やしろひろかた】という人物により、公家の三条西実隆【さんじょうにしさねかた】が写した本文を元に出版されていることから、「石台孝経」への関心は高まっており、斉昭が拓本を入手した可能性は高いと思われます。
最後に、このことは、二種類の拓本を所蔵し、同じ時期に展示をし、日々コレクションの状態を観察する、学芸員だからこそできた「発見」といえます。これこそ、学芸員の仕事の魅力です。そのような学芸員が日々働く博物館へ、ぜひ足をお運びください。その際は、観峰館へ行くこともお忘れなく!
観峰館学芸員 寺前公基