「飛燕」のエンジン 滋賀県平和祈念館

「飛燕」のエンジン 滋賀県平和祈念館

  平和祈念館は、県民の戦争体験談と戦時資料をとおして平和への思いを育む施設です。
「あそこを掘ったらエンジンが出てくるぞ」
東近江市五個荘竜田町の建設工事の様子を見た男性は言いました。79年前の終戦時、小学生だった男性は地域住民らがエンジンについて話しているのを聞いていました。2023年2月、旧日本陸軍の三式戦闘機「飛燕(ひえん)」のエンジンが地中から見つかりました。
「飛燕」は、太平洋戦争のころに日本陸軍が使用していた戦闘機です。ドイツが開発したものを国産化し、液冷倒立V型12気筒エンジン「ハ40」を搭載しています。ゴムホースのラベルの「昭和18年6月15日製」という刻印から、製造年は1943年と推定できます。当時の資料によると、エンジンの重さは700㌔を超えます。戦争中に使用された戦闘機のエンジンが当時の形をとどめている希少な資料ということがわかりました。
 かつて東近江市に八日市飛行場がありました。はじまりは14年、民間飛行家の荻田常三郎の八日市から郷里・八木壮村(今の愛壮町)への飛行訪問でした。その後、国内初の民間飛行場「沖野ヶ原飛行場」が開設され、国内外から飛行家が訪れ八日市の空を飛びました。

 世界では、第一次世界大戦から飛行機の軍事利用がおこなわれ、日本でも飛行機の実戦運用が進められました。八日市では官民あげて誘致運動がくり広げられ、22年に陸軍八日市飛行場が開設されました。八日市飛行場には飛行部隊のほかに、飛行機を整備・修理する分廠(ぶんしょう)があり、軍人のほかに軍所属の職員が働いていました。開設後は街の経済を活性化し、安定した働き口として貴重な存在でした。
 日中戦争以降は、八日市飛行場の部隊も人員を増強して中国へ派遣されました。戦争の長期化によって飛行士の消耗が激しくなり、太平洋戦争以降の八日市飛行場は、飛行士と整備士の教育部隊が入ってきました。部隊の増加と飛行機の大型化によって、八日市飛行場は拡張していきました。
44年頃、布引山の麓(ふもと)で軍用機の防空施設である掩体(えんたい)の築造がはじまりました。また、軍用機を山林などへ避難させる作業がおこなわれ、「飛燕」の機体を山林へ避難させたという証言があります。今回、出土したエンジンは、八日市飛行場で離着陸した戦闘機「飛燕」に搭載されていたものと考えられます。
エンジンの出土地の近くに住む方によると、その方の父は当時在郷軍人としてエンジンを隠す補佐をしたということです。「父はずっと黙っとった。隠したことだけは言うとった」と、父との会話を振り返りました。何らかの事情で出土地まで運ばれ、地中に埋められたものと推定されます。
 終戦後、八日市飛行場にあった軍用機は焼却され、土地は陸軍から大蔵省へ移管されたのち、農地として復員者と周辺住民に割り当てられました。現在は、人々が暮らす住宅地となっています。
 出土したエンジンは、かつて八日市飛行場があったこと、地域と戦争の関係を知る貴重な資料です。

県平和祈念館学芸員 日高昭子

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