長浜市長浜城歴史博物館は、湖北・長浜の歴史や文化に親しみ学ぶことができる地域博物館として、1983年(昭和58年)に開館しました。かつて秀吉がこの地に築いた長浜城の天守閣を再興した建物で、地域のランドマークともいえる存在です。2015年に展示室の一部リニューアルを行い、3階第2展示室はいつご来館いただいても秀吉の資料がご覧いただけるよう、「秀吉と長浜」をメインテーマとした常設展示空間に生まれ変わりました。ここでは、秀吉ゆかりの資料はもちろん、北近江の戦国大名、浅井氏関係の資料などを紹介しています。
さて、今から約450年前、羽柴秀吉は浅井氏攻めの功績によって、織田信長から北近江三郡(坂田郡・浅井郡・伊香郡)を与えられ、初めて領国付きの城主となりました。いったんは浅井氏の旧城にあたる小谷城に入りましたが、1574年(天正2)の夏ごろから琵琶湖岸の「今浜」に築城を開始し、地名を「長浜」に改称しました。
長浜城主となった秀吉は、北近江の地で多くの家臣を召し抱えました。近江出身であることから「近江衆」と呼ばれ、武力・行政、技術などさまざまな面で秀吉を支え、やがて秀吉が天下人になることによって、彼ら自身が国をまかせられる大名となり、全国に活躍の場を広げていきました。
近江衆の中で最も有名な武将といえば、坂田郡石田村(現在の長浜市石田町)出身の石田三成でしょう。若くして秀吉に才能を見いだされた三成は、奉行の一人として秀吉を支えました。
間もなく「関ヶ原合戦の日(9月15日)」を迎えることから、当館で収蔵している石田三成所用と伝わる「紅糸素懸威二枚胴具足(くれないいとすがけおどしにまいどうぐそく)」(個人蔵)を紹介します。この具足は、紀州藩で代々砲術指南を務めた宇治田家に伝来したもので、1600年(慶長5)の関ヶ原合戦後に和歌山に入封した浅野幸長から、戦利品として宇治田家初代が拝領したと伝わります。兜(かぶと)は鉄錆地(てつさびじ)六十二間筋の阿古陀形(あこだなり)(※注1)兜で、正面には金銅の円形板で日輪(太陽)をモチーフにした前立(まえだて)がつけられています。また、胴は矢筈頭(やはずがしら)の伊予札(いよざね)を紅糸で二筋ずつ並べて綴る、いわゆる素懸威としています。胴から垂れ下がり、腰回りを防御するための草摺(くさずり)は七間五段下りで、裾部分には熊毛が植えられています。籠手(こて)、佩楯(はいだて)、臑当(すねあて)も附属しています。典型的な桃山時代の具足であり、石田三成所用にふさわしい装飾美を示しつつも、実用を重視した優れた作品といえるでしょう。
なおこの具足は、1903年(明治36年)の「第5回内国勧業博覧会」の協賛事業として和歌山城天守閣で開催された展覧会に出品されたようで、「和歌山城天主閣陳列品目録」に「石田三成着用甲冑 一領」と記載されていて、当時から三成所用具足として注目されていたことがわかります。
豊臣秀吉の側近くに仕えた三成は、太閤検地を指導するなど、主に行政面で秀吉を支えました。湖北地域には、三成屋敷跡や治部池(堀端池)、大原観音寺など、三成の足跡をたどることのできる史跡が点在しています。ぜひ長浜城歴史博物館とあわせて訪ねてみてください。(長浜市長浜城歴史博物館 学芸員・福井智英)
※注1 室町時代に流行した筋兜の鉢の様式の一つ。丸形で頂上がややくぼんだ形をしている。
長浜市長浜城歴史博物館 学芸員 福井智英