展示された2基の仏壇 長浜市曳山博物館
長浜の市街地は秀吉が造った城下町として知られます。その大手門通りと博物館通りの交差点東北に建つのが曳山(ひきやま)博物館です。2000年に開館し、毎年4月14、15日に開催される長浜曳山祭りに曳き出される山2基を常設展示しています。また、この曳山を修理するための修理ドック(曳山を解体し部材の修理を行う場所)を併せ持つのも、この博物館の特徴でもあります。
昨年、常設展示を少し変えて、今まで有料だった「歌舞伎ロード」を改装、「曳山文化ギャラリー」として無料開放しています。街を訪れる方々の「憩いの場」になればと思って新設しました。その中心に2基並ぶのが仏壇です。長浜で江戸前期から造られた仏壇を浜壇(浜仏壇)と言いますが、ここに展示された2基の仏壇は、その中でも最古のものと考えられています。左側の1基は、屋根の裏側に墨書があり延宝8(1680)年の作品(個人蔵)、右側の1基も同じく墨書から貞享2(1685)年の作品(長浜市蔵)と分かります。なぜ、浜壇が本館に展示されているのでしょうか。
浜壇を産業化したのは、大工として知られる藤岡和泉家でした。江戸前期から実に11代にわたり仏壇を製造し、昭和に入ってからも仕事をしていました。浜壇は、その名をとって「和泉壇」とも言われます。藤岡製の仏壇、つまり浜壇は、
①複雑な屋根構造(八棟造り)のものが多い②上部の欄間などに素木彫刻を施す③くぎを使わず組み立てが可能である④虹梁(こうりょう)や木鼻(きばな)・大瓶束(たいへいづか)などに洗練された細部意匠が施される―などの特徴があります。伝統ある湖北の民家のほとんどに、この形式の仏壇が伝存しています。
実は、この藤岡家は長浜に13基ある曳山のほとんどを製作したことでも知られています。曳山に残った部材の墨書からもそれは証明できますが、藤岡家に残された2000点に及ぶ大工資料からもうかがえます。その資料には、曳山の建地割図(立面図)、細部意匠の型紙・下図や古文書などが含まれています。確かに、曳山を正面から見ると、正面に唐破風や切妻破風があり、それを支えるように2本の前柱が建ち、その下の舞台には勾欄(こうらん)が回ります。これは、仏壇の正面と全く同じ形状です。つまり、長浜の曳山は、藤岡家が製作する仏壇を巨大化して建造したものなのです。だから、曳山の起源を語る資料として、本館では仏壇をエントランス近くに展示しているのです。
本館に展示している仏壇は、最初に述べたように、江戸前期の作で、全国的に見ても最古級の作品です。現在、日本のどこかに延宝8年以前の仏壇があるという情報を得ていません。ですから、日本における仏壇の発生を考える上でも、この仏壇は非常に貴重な作品と言えるでしょう。
博物館の世界では、これまで仏壇を美術品として扱うことはなかったと思います。しかし、仏壇は金工・漆工・彫刻と大工技術とが融合した総合芸術と言える作品です。ここで、敢えて「作品」と書きましたが、美術工芸品として博物館の立派な展示品となるべきものと考えています。そんな学芸員の思いで仏壇を展示している本館を、ぜひお訪ねください。
長浜市曳山博物館館長 太田浩司