当時の街道に思いをはせる館蔵資料として、江戸から長崎までの陸路と海路を描いた絵地図「江戸長崎道中図」があります。
その描写は、江戸から大阪付近までの東海道の陸路を表現することに重きをおきつつ、明石(兵庫県)から西の地域に陸路はみられず、瀬戸内海沿いの町や山、島を描きます。また大阪から長崎までの航路を明確な線で表現し、九州に入ると再び長崎への陸路もみられます。
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このような絵地図は、江戸から京都までの東海道の経路を描いた作品を中心に複数現存し、絵巻物のほかに屏風(びょうぶ)絵に仕立てたものもあります。
中には東海道の宿場の様子を拡大して色鮮やかに描いたものがありますが、一方で本図は、城や寺社、屈曲する道の形状など、注目のスポットを思いのほか正確に描いており、道をたどる楽しみをかき立てます。特に本図に描かれた建物はどこかほのぼのとした雰囲気で、わずかに見える旅人の姿もまた生き生きとした印象を感じさせます。江戸中期以降に流布した印刷物の道中絵図が旅人に向けた実用の地図であるのに対し、この種の絵地図の目的は主に鑑賞用で、その多くが江戸時代前期の様子を示しています。
写真に見えるのは江戸から長崎に及ぶ長大な本図のうち、琵琶湖南部にあたる草津宿、大津宿周辺の地域です。その左寄り中ほどには中島を介し二つの橋からなる勢多橋(瀬田橋)がみえます。勢多橋の向こうは膳所の城、さらに背後に大津の町家や湖岸の米蔵が並んで描かれています。勢多橋から手前をたどれば、人家が少ない東海道の並木道が右へと続き、端には「草津」の文字が見えます。一方、草津から湖岸への道をたどれば「やはせ」(矢橋)の港に到着です。その先の湖上には「湖上渡一里」と朱書きされており、勢多橋へ回る東海道「三里」より近道であることが示されています。
室町時代の連歌師宗長が「もののふの矢橋の船は早くとも急がば回れ勢多の長橋」とうたった(江戸期の「醒睡笑(せいすいしょう)」による)矢橋の渡し船。ここは「急がば回れ」ゆかりの地です。宗長の歌は、琵琶湖に吹く強風やその他のリスクを伴う船を避けて、安心な陸路のほうが人生着実、との戒めを込めたもの。とはいえこの絵地図を見る限り両ルートとも、いずれ劣らず旅情をかき立てています。

<草津市立草津宿街道交流館館長・岩間一水>
