県立安土城考古博物館は、1992年に近江風土記の丘資料館の機能を引き継いでリニューアルオープンした博物館です。周辺の四つの史跡―大中(だいなか)の湖南(こみなみ)遺跡、瓢簞山(ひょうたんやま)古墳、観音寺城跡、安土城跡とその時代を紹介するサイトミュージアムで、近江の弥生時代と古墳時代の出土資料を扱った第1常設展示室と、日本の城郭の歴史を語る第2常設展示室があります。
尾張国(愛知県)に生まれ、戦国大名から天下人へと上り詰めた信長は、1575年の末ごろ、織田家の当主の地位と尾張・美濃(岐阜県南部)の領国を後継者の信忠に譲り、翌年から近江国安土で壮大な城の建築に着手します。これまでの、戦闘や領国支配のための城とは違う「天下人の居城」でした。並行して、ふもとの城下町も整備されます。古代以来の豊浦庄(とようらのしょう)の年貢の積み出し港であり、六角氏の観音寺城の外港の役割を担っていた常楽寺のあった城の西側は、突然、首都さながらの役割を担わされることになりました。
77年6月に信長が安土城下町に出した掟書(おきてがき)が、この文書(もんじょ)です。縦42・3センチ、横61・4センチという、信長が使った中でも超特大の紙を3枚横に継いだ長い用紙に、13カ条にわたってさまざまな規定が記されています。最後の日付の横には「天下布武」の文字を2匹の龍で囲った朱印、継目の裏には馬蹄(ばてい)形の、これまた「天下布武」黒印が押されています。
第1条は有名な楽市楽座条項で、城下町全体を「楽市」とし、座役銭(ざやくせん)などを免じる「楽座」であることが記されます。ただし、楽市楽座は信長のみが行った政策ではなく、最古の事例は六角氏の観音寺城下町のもので、今川氏など他の地域でも見られます。続く第2条は、商人は当時の主要街道である上(かみ)街道(江戸時代の中山道)ではなく、安土城下町を通る下街道を用いるよう命じています。その他、安土に移住した人々への税金の免除や、城下の治安や秩序の維持など、人々が新設の安土城下に移住したくなるような特典が並びます。そのかいあって、安土は人口6000人を誇る大都市になったということです。
この掟書は、本能寺の変で信長が殺され、次いで天下人となった秀吉の甥の秀次が南の八幡に城下町を作ると、安土の城下町ごと八幡に移されていきます。江戸時代は八幡町に伝えられました。当初は表具はされていなかったはずですが、伝えられる中で巻物の形になりました。折れや汚れなどを改善するため、2022年度に近江八幡市ふるさと納税寄付金を活用して修理が行われ、その際に元の、紙だけの形に戻されました。修理後、この掟書は当館に寄託される形で、約400年ぶりに安土の地に帰ってきました。
滋賀県立安土城考古博物館学芸課主幹・高木叙子
http://www.azuchi-museum.or.jp