東アジア間の交流示す「獣帯鏡」野洲市歴史民俗博物館

「銅鐸博」 開館35年記念で4面展示

 野洲市歴史民俗博物館は、日本最大品を含む24個の銅鐸(どうたく)が出土した野洲市小篠原、大岩山に隣接する場所に開館し35周年を迎えました。開館以来、野洲の歴史や民俗に加え、銅鐸に関するさまざまなことについて紹介してきたことから、「銅鐸博物館」の愛称で親しまれています。
 
 今回は、2023年10月07日~2023年11月26日に開催した開館35周年記念企画展「四面の鏡~海を越え、つながる王」の展示資料の中から「三上山下(みかみやました)古墳出土獣帯鏡(じゅうたいきょう)」について紹介します。
 
 1898年、野洲市の三上山下古墳から2面の獣帯鏡が発見されました。この2面の鏡が考古学会に知られるようになったのは、1923年のことです。考古資料の収集家であった山川七左衛門氏の所蔵する鏡を収録した書物に、考古学者の梅原末治氏の解説付きで掲載されました。原鏡となる鏡を粘土に押し当ててつくった鋳型で製作された同型鏡であることから、注目を集めることになります。36年には当時の文部省から重要美術品の認定を受けました。認定通知の宛名が山川氏になっていることから、少なくともこの時までは山川氏に所蔵されていたことがわかります。
 
 この鏡が再び注目を集めることになったのは、71年の韓国公州市での武寧王(ぶねいおう)陵の発見です。武寧王陵は、百済第25代武寧王とその王妃の合葬墓で、中国や倭(わ)国(日本)との交流を示す多種多様な副葬品がみつかっています。この武寧王陵から出土した獣帯鏡が、三上山下古墳と綿貫観音山古墳(群馬県高崎市)から出土した獣帯鏡と同型鏡だったのです。同型鏡は中国南朝で製作されたとする説が有力で、中国と朝鮮半島、倭国を結ぶ東アジア規模の交流を示す貴重な資料として注目されました。
 
 しかし、その後山川氏によって所蔵されていた鏡の行方はわからなくなっていました。ながらく所在地不明として取り扱われてきましたが、近年、九州国立博物館によって所蔵・保管されることになりました。
 
 鏡が山川氏の手を離れて以降、九州国立博物館に所蔵されるようになるまでの経緯の詳細はわかっていません。ところが、鏡を納めている桐箱(きりばこ)を観察すると興味深い事実がわかります。それは、橋井半雲と判読できる印が押されていることです。山川氏の他に、橋井氏も鏡を所蔵していた可能性が考えられます。桐箱には意味を読み取ることのできない墨書もあり、もっと多くの人の手に渡っていたのかもしれません。

野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)学芸員・芦塚晶太
http://www.city.yasu.lg.jp/soshiki/rekishiminzoku/museum.html

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